The Downside of High

>> 2010/01/31

カナダの主な産業は何か、と聞かれたら、相手が冗談の通じる人であれば
「麻薬産業」
と答えると思う。
とはいえ、これは冗談でも何でもないわけで。

カナダの麻薬産業には日本円にして年間2兆円もの金が動き、マリファナ使用率は個人使用が合法のオランダを思いっきり引き離して、先進国ではダントツの1位。
特にバンクーバーはその名を世界に知られる(知らないのは日本人くらいか)マリファナ天国で、使用率も栽培率もカナダでトップ、麻薬問題はカナダ全土で最も深刻なのだ。
ブリティッシュ・コロンビア州のいたるところで違法大麻栽培が行われており、マリファナだけでなくハードドラッグの闇取引は後を断たず(というか増えるばかり)、麻薬絡みのギャング抗争は激化している。

CBC(こちらのNHKのようなもの)の特番やドキュメンタリー系番組が好きでよく観ているのだけれど、先日観た「The Downside of High」という番組はマリファナ常習者と、重篤な精神疾患であるschizophrenia(統合失調症)との関係に関するドキュメンタリーで、なかなか興味深かった。

マリファナを常習するティーンエイジャーに統合失調症を発症するケースが多い(常習しない者に比べて4倍以上の発症率)ことから研究がなされ、特定の決まった遺伝子を持つ者がマリファナを常習すると、その病気を引き起こす可能性が高いことがわかったらしい。

ちょっとびっくりしたのが、マリファナには大きく分けるとTHC(テトラヒドロカンナビノール)というマリファナの実効成分(つまりハイになる成分)と、CBD(カンナビジオール)というそのTHCの精神的作用を打ち消す働きのある成分が含まれていて、それである程度バランスを取っているらしいのだけれど(それにしても自然というか植物というのはうまくできている)、近年はもっと手っ取り早くハイになれるように、このCBDという成分の配合をぐっと少なくした栽培方法が取られているという話。
マリファナは自然のものだからタバコなんかよりずっと害が少ない、などと一部では言われているが、もはやそんなのんきなことを言っている時代ではないのかもしれない。

ちなみに英語でマリファナを表す単語は星の数ほどあって、「pot」「weed」「cronic」「ganja」「herb」「bud」「skunk」なんかが代表的なところ。
「これはherb(ハーブ)だから」
なんてすすめられても、大きな声でキッパリ
「NO」
と言いましょう。

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楽しいみかんライフを

>> 2010/01/28

昔から柑橘類はそれほど好きでもなかったものの(こっちに来てからよく食べるようになった)、冬みかんは好きでよく食べていた。
こっちでも日本産は売っているが、韓国産とかパキスタン産のみかんが値段も安いし、日本の冬みかんにそっくりでなかなか美味い。

ドイツから日本に帰ってきた子供のころ、ドイツ人のようにみかんをぐちゃぐちゃにむいていたら、母親に
「日本では何でも見た目をきれいにしなくちゃダメ」
と言われて、あの日本では誰もがする花のようなむき方(何て言うんだ?)を教えてもらい、日本って面倒くさいんだなあ、と思いつつむいていた。

ところで最近ちょっと話題になった、必殺「和歌山むき」。



ほーなるほど、と思い、みかん好きのダンナにも見せて二人でやってみた。
早くむきたいあまり(何のために?)ちょっと果汁が飛ぶのが難だが、確かに早い!

おまけに検索していたら、他にもこういうむき方があり、これも目からウロコ。



ちなみにカナダでは「クリスマスオレンジ」と言って、クリスマスに日本の温州みかんを食べる習慣があり、温州みかんの8割以上はカナダに輸出されているのだ。
カナダに来るまで全然知らなかった。
ダンナに
「やっぱりみかん見るとクリスマス!って感じする?」
と聞いたら、するのだそうだ。
日本人のわたしにはあんまりピンと来ないけれども。
やっぱりみかんと言えばコタツ!でしょう、うん。

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ひとたびはポプラに臥す(宮本輝著)

>> 2010/01/21

この人は本によってものすごくキャラの変わる人で(作家に対してこういう言い方が適切かどうかはさておき)、読むたんびに、どんな人か会ってみたいなあ、と思う。
大病したりノイローゼになったりと人生大変そうだが、きっと生まれ持っているエネルギーが強すぎるのだと思う(勝手に断言)。
持って生まれてくるエネルギーは弱いからダメとか強いからいい、というのではなくて、弱ければ弱いなりにその人に合った道があるし、強ければそれを上手く発散していかないとキツい。
ようするに大事なのはバランスである。

と、まあそんなことはどうでもよくて、内容は宮本輝本人が中国六朝時代の訳経僧である鳩摩羅什の軌跡を追って、西安からパキスタンのイスラマバードに至るシルクロード6700キロを旅した記録した長編紀行エッセイ集。
1~6巻まである。
こちらのブック・オフで1~2巻を見つけて読んでみたらハマって、日本のブック・オフで続きを買って読んだ(なぜか普通の本屋にはなかった)。

精神的にも肉体的にも相当きつい旅だったようだけれど、宮本輝独特の「虚しいけれどおもしろい、おもしろいけれど虚しい」みたいな感じ(どんな感じだ)がよく出ていて好きだった。

人は旅に出るとついつい何かを見つけようとしてしまう。
それでもただ単に、虚しさだけがつのる旅だってある。
長期的な旅に出ると特に、何か見つけないと(あるいは意味を見出さないと)帰れん、となってしまうことが多いかもしれないが、長い時間が経ってから見つかることもあるし、死ぬまで見つけられなくてもそれはそれでかまわないと思う。
ただただ虚しかった、それもアリだ。
その虚しさこそが、そうとは知らずに、その後の人生の支えになることだってあるのだから。

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サヨナラの儀式

>> 2010/01/08

2008年も結婚だ移住だといろいろあったが、2009年もいろいろあった。
永住権を取ったり引っ越しをしたり、初めての一時帰国をしたり。
というか、今年はそれほど何も起こらなかったな、という年があんまりないような気がする。
人生いつも激動しているのである(キッパリ)。

初めての一時帰国ではいろんなことを思った。
思ったのは確かなのだが、渦中にいるときは自分が何を感じているのかわかっておらず、後々から、ああそういう気持ちだっだのか、と遅まきに理解するタイプなので(誰でもそうなのか?)、今回もそんなふうでまだ言葉にはできず、感じたことの整理もできていない。

そういえば日本に帰国して一週間後、ホテルの部屋でわあわあと泣いた。
久しぶりの暑さや湿気にも疲れていたし(9月末なのに30度近くもあったのだ)、人ごみにも疲れていたし、体調も悪かったし、ダンナが四六時中ペッタリとそばにいるのにも疲れ、でも何で自分がこんなに泣いているのかわけがわからなかった。
それで困り果てたダンナに
「何がそんなに辛いのか」
と聞かれて思わず口をついて出た言葉が
「だってわたしまだちゃんと東京にサヨナラを言ってなかった」
というもので、自分でも仰天してしまった。
なんとおセンチな!
それでもそれを言った後に、ああそうなのか、それでこんなに悲しいのか、と納得したらよけいに泣けてきて、これでもか!というくらい泣いてやった。

わたしは「来る者拒まず去る者追わず」のアッサリした性格で、あまり人に対して思い入れをしたことがないくせに(もちろんたまにはある)、なぜか自分が暮してきた街にはそれぞれひどく思い入れが強い。
去った後にも、かなりしつこくその街のことを思い出したり懐かしんだりするパターンが多い。
東京は人生で一番長く暮した街のわりにはけっこう楽にお別れできたなあ、とか思っていのだが、実はそうではなかったのかもしれない。
つき合っていたオトコと自然消滅的に別れて何とも思わず暮していたのに道端で偶然に遭遇、そうしたら急に未練が押し寄せてきて・・・みたいな感じである。
ちょっと違うか。

かといって、ヨリを戻したいのか、もとい、東京(あるいは日本)に戻りたいのか、と聞かれるとそういうわけでもない。
それはどの街でもそうで、しつこく思い出しはするけれども、また戻って住みたいとは思わない。
すべては終わってしまったこと、その街で過ごした時間が戻ってくることは二度とない。
思い出は思い出のままがいいのである。
ただ何か自分の中で、決着をつける儀式がしたいだけなのだ。

儀式はいつも一人でやる。
こないだの帰国ではできなかったし、次回帰ったときにやろうと思っている。

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過激な修学旅行・ベルリン②

>> 2009/12/27

改めて言うまでもないが、修学旅行当時のドイツの成り立ちは西ドイツがボンを首都とする資本主義国家、東ドイツが「東ベルリン」を首都とする社会主義国家だった。

いつもこの話で一番ややこしいのは、国と同じく、東西に分割されたベルリンが東ドイツの領土の中にあったことだ。
こうなるとベルリンの中の東西の境界線だけを封鎖しても意味がないわけで、あの壁はベルリンの西側部分、つまり「西ベルリン」をぐるりと取り囲む形で建設され、「西ベルリン」は西ドイツの「飛び地」となった。
西ドイツと「西ベルリン」の関係は本当はもっと複雑なのだけれど、これが「西ベルリン」が「陸の孤島」と呼ばれた所以だ。

修学旅行では、東ベルリンを半日ほどのバスツアーで周った。
決められた観光ルートだった。
国境検問所の手前では先生たちに
「カメラ、ビデオカメラ、ウォークマン(まだCDもない時代だった)は鞄の中に隠しなさい」
と言われた。
経済発展の遅れている東ドイツで電子機器類を持っていると、どんな理由をつけて取り上げられるかわからなかったし、社会主義の国々はカメラにはとても敏感だ。
何も撮影していないのに持っているだけで当局に拘留されたり、フィルムをカメラごと没収されたりした、というような話はいくらでもあった。

検問所では無表情な検問官たちがバスの中まで乗り込んで来て、どこの国に入国するときよりも長く一人ひとりのパスポートを念入りに調べた。
当時(というかいつの時代も)政治的にややこしかった中近東からの生徒たちや、冷戦相手のアメリカの生徒たちのチェックには時間をかけた。
とりわけ厳しくチェックされたのが顔写真で、何度も左を向いたり右を向いたりさせられた。
先生の言ったところによると検問官たちは骨相学を学んでおり、整形くらいでは彼らの眼はごまかせないということだった。
もちろん整形をしている逃亡者を見つけ出すためだ。
その後バスの中のあらゆる場所を調べられ、帰り際に人を隠して検問所を突破できるような仕掛けがないかどうか見るために、バスの下には巨大な鏡が差し込まれた。

東ベルリンに入った途端、街の雰囲気は一瞬にしてどんよりと重くなった。
それは、雰囲気というものはこれほど変わるものなのか、というような驚くほどの変わりようだった。
もともと北ドイツの都市部は、明るく楽しい雰囲気に満ち満ちているというわけでもないと思う。
それでも東ベルリンはそれまで訪れたドイツのどこの街よりも、というより、どの国のどんな街よりも、何かやり場のない陰鬱な閉塞感で占められていた。
その後に訪れた中国の一部で似たような閉塞感を感じたことがあったけれど、それでも抑えようとしても抑えきれないあの中国の人々が発するパワーは東ベルリンでは欠片も感じられなかった。

分断される前から首都であったベルリンにはたくさんの壮麗な文化的建築物や施設が残されており(特に東ベルリン側に多く残されていた)、そういったものも見学したはずなのだが、覚えているのはもっと細かい出来事や風景だ。
食事をする場所だとはとても思えない殺風景なレストランで、無愛想なウェイトレスが唯一のクソ不味くて冷たい料理を運んで来たことや、ジュース類がなぜか全部緑色をしていたこと、フォークやスプーンや硬貨がアルミ製で子供のオモチャのようだったこと、コーヒーが泥水みたいなシロモノだったかわりにケーキが食べられる味だったこと、あらゆる場所の照明が暗かったこと、噂に違わずマッチ箱のようなオンボロ車ばかりが走り、ショーウィンドーには飾るべき商品がなかったこと、アメリカの象徴であるコカ・コーラの缶やマルボロのタバコの箱を持っている生徒たちのところに子供たちが物珍しそうに寄ってきたこと、同じドイツ人なのに東側の人々はあきらかに違う顔つきをしていたこと、街並に色というものがなく、まるで白黒映画の中に入ったようだ、と思ったこと。

強く印象に残っているのは、かつて人の住んでいたレンガ造りのアパートや建物にコンクリートを流し込んで、それをそのまま壁として機能させている場所がいくつかあったことだ。
壁を建設するコストを浮かせるため、廃墟となった建物(あるいは住人を無理やり退去させて)をそのまま利用したのだろう。
街の中に壁や有刺鉄線があること自体、すでにじゅうぶんに異様な光景だった。
普通ならカーテン越しに人影が見えたり灯りがもれたりするはずの窓がコンクリートの灰色で塞がれている様子を目にしたときに感じたのは、それまでの人生で体験したことのない恐怖だった。

行きよりも一層時間のかかる検問を終えて西側へ戻ってくると、壁を乗り越えようとしてかなわなかった人々の墓標がずっと遠くまで壁伝いに並んでいた。
ついさきほどまで滞在していた東ベルリンを見下ろすことのできる残酷な物見台に、秋の夕暮れの光が射して細く長い影が伸びていたのをなぜか昨日のことのように覚えている。

今年はその壁が崩壊してはや20年。
過激な修学旅行は、特殊な修学旅行でもあった。
壁が崩壊してしまった今、もう二度と行くことのできない修学旅行だ。

関連記事:過激な修学旅行・ベルリン①

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過激な修学旅行・ベルリン①

>> 2009/12/23

子供のころから何度か転校したおかげで、いろんな修学旅行に行った。

大きく分けると
①日本人ばかりと行く修学旅行
②ドイツ人ばかりと行く修学旅行(ドイツだったので)
③多国籍で行く修学旅行(ドイツだったがアメリカンスクールだったので)
である。

初めて体験した「日本人ばかりで行く修学旅行」は、制服を着ろだのアレやらコレやらは着るなだの、アレを持って来いだのコレは持って来てはいかんだの、その決まりごとの多さに驚いた。
日本の学校は人数が多いし、ある程度ルールを作っておかないと収拾がつかず、仕方がない部分もあるのだろう。
それにしてもびっちりと詰まったスケジュールでいろんな場所を見学したはずなのだが、あまりにも決まりごとが多かったせいで(?)今ひとつ何を見学したのか記憶にない。
覚えているのは、就寝時間後に他の部屋に遊びに行ったのを先生に見つかったことぐらいだ。
正座をさせられ頭をひっぱたかれて、こめかみをヒクヒクさせた先生にさんざん説教をされたが、正直なところなぜそこまで説教されなくてはいけないのかよくわからなかった。

そういう意味では「多国籍で行く修学旅行」は、なかなか自由かつ過激だった。
なんといってもスローガンが
「No drugs, no alcohol(ドラッグ及び酒類禁止)」
である。
記憶が定かではないけれど学年によって行き先が違っており、われわれの学年の行き先は当時まだ「東西の壁」の存在するベルリンだった。
それがなければ生きてゆけない(!)アメリカ人の生徒たちのために、コカ・コーラのケースをいくつも積んだバスをチャーターして行った。
スローガンも空しく、すでにその行きのバスの中でミネラルウォーターに見せかけたウォッカを飲んで酔っ払っている生徒が何人もいた。

西ベルリンで泊まったホテルはひとつひとつの部屋は広々としていたものの、今にも朽ちそうな古い造りで、両隣の部屋の物音がツツヌケだった。
トイレは部屋に付いていたがシャワー室が共同で、1マルク(当時ドイツの通貨はまだユーロではなくマルクだった)を入れると三分間だけチョロチョロと水の出る、「ぼったくりシャワー」があった。

日本の修学旅行とは違い、誰がどこの部屋にいようがいまいが、夜にどこの部屋で寝ようが、一向におかまいなしだった(今考えてみるに、先生たちはみなどこで何をしていたのだろう?)。
毎晩どこかの部屋で酒盛りがあり、大量の酒瓶をベッドのマットレスの下に敷き詰めて隠している生徒もいた。
番号のない、古くてばかデカい部屋のドアはどれも似たりよったりで、間違えてドアを開けたら男子生徒が知らない女を連れ込んでいる場面にも遭遇した。
門限は夜中の12時で、生徒たちは部屋で酒盛りをしていないときは夜の街に繰り出していた。
壁の向こう側、社会主義のさびれた東ベルリンとは違い、有名な繁華街のある西ベルリンの夜は眠らなかった。
おまけに最終日前日になると先生が
「今日は滞在最後の夜だから特別だ。門限は明日の朝食の時間までとする」
などと、日本の学校の先生が聞いたら卒倒しそうなことを言ったせいで、その晩ホテルには誰も戻らなかった(と思う)。
翌日の朝食の時間にはみな徹夜明けの青い顔で集合し、食事に手をつけている者はほとんどいなかった。

こんな状態ではあったけれど、奇跡的にも(?)全員揃って帰途についた。
無茶苦茶なようでいて、自分たちの責任はすべて自分たちにある、と自覚していた気がするし、先生も親たちもそう思っていた。
日本版修学旅行と多国籍版修学旅行、どちらが良いとか悪いとかはよくわからない。
郷に入れば郷に従え、というところだろうか。
多国籍版の修学旅行の引率はものすごく楽だ、ということだけは間違いない気がするけれども。

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Julie and Julia

>> 2009/12/17

ダンナが
「これってまさにオクサンが好きそうな映画だよな」
としみじみ言っていた「Julie and Julia」をやっと観た。
テレビのCMでやっていたときに、これってきっとすごく好きだよな、と自分でも思っていたのだ。

で、観てみたらやっぱり好きだった。
こういう後味の良い映画はいい。
しかもテーマが「料理」と「食べること」(まあ一番大きなテーマは別にあるんだけども、たぶん)だ。
嫌いなわけがない。

ふたつの実話を元に作られた映画で、ひとつはアメリカにフランス家庭料理を紹介した、アメリカ人なら誰もが知る料理家のJulia Childの話。
彼女は1960年代に、700ページにも及ぶフランス料理の本を出版したのだが、500以上もあるその膨大なレシピを
「365日で全部料理する!」
と宣言し、それをブログに綴ったJulieという女性の話がもうひとつの話。

当時のブログはまだWEB上で読むことができ(The Julie/Julia Project)、最近映画を観た人のコメントなんかもたくさん入っていておもしろい。
ブログがだんだんと読者を集め、そのうち新聞にも取り上げられ、本が出版されて、最後にその本がこの映画になった、ということで、まさにアメリカ版「電車男」なのだった(ちょっと違うか?)。

とにかく観終わった後、何かむちゃくちゃこってりしたものが料理したくなるというか食べたくなること請け合いである。
それにメリル・ストリープがあいかわらず、すごい。
スクリーンで見るたびにいつも思うのだけれど、この人は「すごい」という平凡な言葉以外、うまい言葉が見つからない。
昔「マディソン郡の橋」を観たときも、「すごい」のひとことだった。
映画の内容自体はあまりにもしょうもなくて(だいたい友人に強引に映画館に引っ張っていかれたのだ)すっかり忘れてしまったけれど、メリル・ストリープの芝居は圧巻だった。
彼女が出演していなかったら、そんな映画があったことさえ忘れていたと思う(言いたい放題)。
こういう人のことをまさに「女優」と呼ぶのだろうなあ。

というわけで、こちらがその予告編。



ちなみに、これが大人気だった料理番組に出演する本物のJulia Child。
身長が1.88mもあったらしい。
妙に目が離せない謎の魅力全開のキャラで、誰かに似てるなあ、と思ったら「ジャイアント馬場」だった。
アッポー。

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